泥船が崩壊すれば単なる泥まみれ

若いころは泥船に乗り込んだことに気づかなかった。むしろ光り輝く特別な船だと思っていた。船上席に立ち、葉巻を咥えながら、水平線の向こうに黄金郷が見えるのを待っていた。しかし、いつまで経っても何も現れない。カレンダーの日付は加速度的に進む。オッサンになってようやく泥船だと気づいた。不承不承それを認めるまでにずいぶん時間が掛かってしまった。脳の発達の偏った人間は、世界を普通に了解するのに10年遅れる。そういうことだ。失われた10年。暗灰色の曇天の下で、泥舟が崩れるのを見た。俺が自己認識を進めることで魔法が解けたのだ。そして人生はやり直せないから、泥の堆積と付き合わなければならない。鈍色の膨大な泥。俺は巨大な鉄の船に曳航されながら、泥の海を彷徨っている。立派に社会化される仕組みに復帰するには遅すぎるから、この鉄の船は、死霊を引きずるためのものでしかない。野戦病院の負傷兵と言うほどでもない。俺はほとんど戦ってないのだから。ただ自分の中でもがいて、自傷的な戦傷を負っただけだ。ひとりで戦争をやっていたわけである。四方山話をする相手もないまま、俺は鉄の船に曳航される。壊れた泥船からは海岸線が見えない。ただただ無為な海がある。死んだのに生命活動だけが継続している。脳波がフラットラインでも、エンドロールが流れてくれない。俺を引きずっている鉄の船は王立船団の一部らしい。俺は革命家にはなれなかったのだ。脳内を走っていただけだから、当然である。罰せられているのか自己処罰なのかわからない。いずれにせよ、社会的な死体として巨大船に引きずられているのだ。巨大な鉄船の威容に気圧されながら、複雑な悔恨に戸惑う。脳内を漕いでいるよりは、鉄の船の乗組員になっていた方がよかっただろうか。泥にまみれ枯死することはわかっているが、その結末まで無駄に長すぎる。そしてやり直すには短すぎて、老いすぎている。茫洋とした消し炭色の空間の中で、瞑目し、時間の過ぎ去るのを待つしかない。そのエンディングまで、恐ろしい儀礼が待っているだろう。立派になるための通過儀礼ではなく、自分を始末するために、ひとつひとつ痛恨の体験をしないといけないのだ。現状の悔恨の量はおそらく序の口だ。これから本物の悔恨を経験しなければならない。普通の人が悲喜こもごもの人生を刻んでいくのとは対極に、人生を持てなかった空白の者が手にする痛恨の苦い悔恨を。たぶん陸揚げされてから本格的にツケを支払うことになる。今のうちに発狂したい。