消費だけだった生活史

ネット巡回がインプットにならずただの消費になっていた
実用性のない情報を得るということは、時間を消費しているだけなのだ。社会的実用性という回路が形成されなければ、消費した時間は回収出来ない。有限の時間をゲームに何百時間も突っ込んだり、欧州サッカーの知識を増やしたりするのは、実用性という観点から見たら、血涙流してお金を撒き散らして歩いている狂人である。でもいいのだ。別の平行世界の俺は、専門知識を磨いてすべてを実用性に分配して出世しているから。こっちの世界の俺は、消費して消費して、話題の合う圏内で何かを得たような錯覚をして、それが消費であることに時折失望しつつ、でも消費する。オッサンになって、ようやく、この世界のバージョンの俺の実像に気づく。単なる消費者だったという絶望。何も築かなかったという脱力感。若い頃の愉楽と引き替えに、現在の苦痛に気圧され、代償を支払わなければならない。過去にあれこれ手を付けたものは、同心円状に遠く遠く消えつつ俺を取り巻く。ゼビウスとかバーチャファイターとか、オッサン臭い過去に目眩がする。消費の力で俺は自分の世界を焼け野原にした。時間という財産を売り払い、消費で快哉を叫んだ瞬間は、書き損じの手紙のようなもので、社会のどこにも届かない。消費だけだった生活史を振り返り、脂肪だけが増えた肉体は、いずれ安い死によって掃除され白骨化するのである。振り返ると人生のすべての日が厄日だったようで、鉄火場で延々と時間を潰していたとしか思えない。オッサンになると、勲章や地位が欲しくなる。それがないと単なるオッサンで、わびしく怪しい、積み重ねのない人間。消費して網膜に焼き付けたはずの愉悦は、なぜか消えた。今さらこの年では何も積み重ねられないので、消費という剣を鞘に収めることは出来ない。スッカラカンなのに剣を振り回す消費者。金がないのにどうして消費できるのかというと、ネットというゲームがあるからだ。時間というコインがあれば、消費は出来る。典型的なのははてなユーザーだろう。はてなにエントリーしているのは、無料ゲームシコシコやってるきちがいの類。はてブはスタンプラリー。後に残るのは無意味なスタンプの数。平均年齢だけが高く、消費だけ憶えたごみくずだ。社会的武器がない人でも、はてなダイアリーでは弾詰まりを起こすことなく、延々と連投出来る。たくさんブックマークするサービスもついてくる。Twitterに転戦して、一日中仮想的な機銃掃射を行ってもよい。別の平行世界の俺がクルーザーの船上席からワイン片手にネットジャンキーを観察していれば、眉根を顰めているだろう。